売国奴辺
木走日記から
横光克彦代議士
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20060630/1151654101
何かね、書く気さえも無くなるよ。
尤も、このエントリのホンダイ(半島の自動車メーカ)本題は細野正文氏だろう
日本男児此処に在り
●一切弁明をせずその不当な非難に生涯耐えた細野正文氏のあっぱれな生き様沈みかけた船からの脱出劇と言えば有名なのがタイタニック号でありますが、ウィキペディアで調べてみると興味深いエピソードが載っています。
唯一の日本人乗客
タイタニック号には唯一の日本人乗客として、ロシア研修から帰国途上の鉄道院副参事であった細野正文氏が乗船していた。鉄道院副参事とは、おおむね現在の国土交通省大臣官房技術参事官に当たる役職。細野氏は音楽家細野晴臣の祖父にあたる。有色人種差別的な思想を持っていた他の白人乗客が書いた手記によって、「人を押しのけて救助ボートに乗った」という汚名を長いこと着せられた。このことは恥ずべき日本人の行為として日本の小学生向けの教科書にも取り上げられたが、細野氏は一切弁明をせずその不当な非難に生涯耐えた。死後の1941年になって、細野氏が救助直後に残した事故の手記が発見され、その後1997年には氏とその白人乗客が別の救命ボートに乗っていたという調査報告がなされたため、氏の名誉は回復されることになった(しかし先の事件が長く喧伝されたのに対して、名誉回復が行われてから日が浅いため、いまだにこの件を持ち出して日本人男性を非紳士的と主張する日本の女性や外国の人間も少なくない)。細野氏がこの様な不当な批判を受けることになった理由として上述のように日本人に対する偏見もあるが、氏が事件後直ぐ帰国して批判に対する反証の機会を得られなかったこと、そして氏が弁明や言訳をすることを恥とする武士道的な倫理を持っていたからと考えられる。しかしこのような、沈黙を美とする考えは欧米人には全く通用しなかったと考えられる。なお細野氏が救助直後に残した事故の手記は、タイタニック号備え付けの便箋に書かれたものであり、沈没後に残された数少ないタイタニックグッズとして、第二次世界大戦後に欧米のコレクターの間でかなり評判となったが、氏の遺族は譲渡の申し入れを丁重に断っている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%8B%E3%83%83%E3%82%AF%E5%8F%B7
「有色人種差別的な思想を持っていた他の白人乗客が書いた手記によって、「人を押しのけて救助ボートに乗った」という汚名を長いこと着せられた」細野正文氏なのですが「このことは恥ずべき日本人の行為として日本の小学生向けの教科書にも取り上げられたが、細野氏は一切弁明をせずその不当な非難に生涯耐えた」そうであります。
この汚名が雪がれるのに85年も掛かるのですが、御立派なのは「一切弁明をせずその不当な非難に生涯耐えた」細野正文氏の「武士」らしい生き様なのです。
後年見直された氏の手記でありますが、こちらのサイトで原文を見ることができます。
Sound and vision of Hide
タイタニック号・細野正文さんの遭難手記@横浜マリタイムミュージアム
またこちらのサイトでは現代語訳が掲載されています。
タイタニック号に思う 私が通信士になった動機
http://www.jomon.ne.jp/~ja7bal/titanic.htm
失礼して部分抜粋。
(前略)
前に多数の男女群集す。是を見しときは、大事件の発生せること疑いなきを知り、生命を本日にて終ることと覚悟し、別にあわてず、日本人の恥になるまじきと心がけ。この間、船上よりは危急信号の花火を、絶えず上げつつあり。
その色青く、その声凄し・・・・。ボートには、婦人たちを最先きに乗す。その数多きゆえ、右舷のボート4隻は、婦人だけにて満員の形。その間、男子も乗らんとあせるもの多数なりしも、船員これを拒み、短銃を擬す。この時、船は45度に傾きつつあり。
ボートが順次に下りて、最後のボートも乗せ終り、すでに下りること数尺、時に指揮員、人数を数え、”ツー・モア”とさけぶ。その声と共に1男子飛び込む。余はもはや、船と運命をともにする外はなく、最愛の妻子を見ることも出来ざるかと覚悟しつつ、凄愴の思いにふけりしに、いま、1人の飛ぶを見て、せめてこの機にてもと、短銃に打たるる覚悟にて、数尺の下なる、ボートに飛び込む。
幸いなる哉、指揮者、他のことに取りまぎれ、深く注意を払わず、且つ深き故、男女の様子も分らざりしならんか。飛び込むと共に、ボートは、スルスルと下がりて海に浮かぶ・・・・。
船はと見れば、上甲板が水面に表れるのみ。1時近きころと思う時分、すさまじき爆発起ること3〜4回。思う間もなく、大船は音をなして、全く姿を没し、いま、目前にありと見しも影もなし・・・・。
(後略)
この臨場感溢れる手記を読めば、氏が「人を押しのけて救助ボートに乗った」どころか「日本人の恥になるまじきと心がけ」婦女子を優先させた後「余はもはや、船と運命をともにする外はなく、最愛の妻子を見ることも出来ざるかと覚悟しつつ、凄愴の思いにふけり」ながら、最後の最後に幸運にも救命ボートに乗れたわけです。
この細野氏に濡れ衣を着せ「有色人種差別的な思想を持っていた他の白人乗客」とは、英国人教師ローレンス・ビーズリーであります。
その後の調査でローレンス・ビーズリーの手記は全くの誤報であり、ローレンス・ビーズリーの乗った右舷13番救命ボートと細野正文氏が乗った左舷10番救命ボートはまったく別であったことも証明されています。
昨日(29日)発売の週刊新潮の高山正之帝京大教授のコラムにたまたまですが、ことの詳細が述べられています。
(前略)
様々に語られるエピソードの中に思わぬ形で日本人も登場した。
救命ボートで脱出した英国人教師ローレンス・ビーズリーが「無理やりボートに乗ってきた嫌な日本人がいた」と語ったのだ。
この船にはたった一人の日本人乗客がいた。鉄道院官吏の細野正文氏で、鉄道事情を視察し米国経由で帰国する途次、たまたまこの船に乗り合わせていた。
日本の新聞がビーズリー証言を掲載すると、生還した細野氏のもとに「日本人の恥」と非難する手紙が全国から殺到し、彼は職も失った。しかし氏は一言の弁解もしないまま1939年に他界する。
その後、遺品の中から沈没騒ぎのさなかに氏がその仔細を書き留めた記録が見つかる。それはタイタニックのレターヘッドつき便箋に書かれていた。そこには「日本人の恥になるまじきと心がけ」る細野氏の心情と行動が綴られ、彼が脱出したのも「もう二人乗れる」という乗員の声に従って左舷ボートに乗ったとあった。
記録はつい十年前に、タイタニック号の研究グループの目に留まり、細野氏は左舷「10番ボート」に乗ったことが確認された。
ビーズリーは右舷「13番ボート」に乗っていた。彼が見た「嫌な日本人」は実は出稼ぎの中国人だったことも突き止められた。
この話は97年に「タイム紙」が報じ、85年ぶりに氏の汚名が雪(そそ)がれた。
ちなみに同氏の孫がYMOの細野晴臣氏になる。
(後略)
週刊新潮7月6日号 160ページ
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いやしかし、事実でないまったくの言いがかりのせいで、「日本の新聞がビーズリー証言を掲載すると、生還した細野氏のもとに「日本人の恥」と非難する手紙が全国から殺到し、彼は職も失った」細野正文氏ですが、「しかし氏は一言の弁解もしないまま1939年に他界する」とは、なんという生き様なのでしょう。
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今の日本のマスゴミもこれと同じレベルだから気を付けないと危険です
多分、南京大虐殺^H^H^H事変の百人斬りもこんな感じで間違った情報が(意図的に)流布されたのでしょう
安部と福田だけにクローズアップされている総理戦ですが、何でローゼン麻生に焦点が当てられないのだか…
今現在の問題である経済問題は、安部と福田のどちらでも役者不足なのに
対特亞外交に関しては安部の方が強硬かとは思いつつあったりする
適度に反発も削がないと後が怖いかな?